出産
1980年7月21日
葛飾区・亀有出身である母はもう店の活気がなくなって久しくなってしまった布団屋の実家に戻り、出産の準備をしていた。
もう少し先だろうと思っていた矢先、午前7時ごろに唐突に陣痛は始まり新しい生命はわがままに出てこようとしていた。
一緒に準備をしていた祖母と一緒に環七でタクシーを捕まえ、病院に向かうもその時間は運悪く通勤のラッシュアワーの為、車は全然進まなかった。
急速に陣痛のリズムが早まり、中からはまだかまだかと唸りを上げているが、外の世界はこの緊急の最中に準備がしきれずにいた。
ふとタクシー運転手があたふたと車を停め外に出て行ってしまった、ある人達に助けを乞うために。その先にあったのは・・・信号待ちのパトカーだった。
タクシー運転手が妊婦の緊急性を伝えると、事情を理解した警察官は妊婦をパトカーに移すように指示した。妊婦というたすきはタクシー車からパトカーに繋がれた。
サイレンがけたたましく鳴らし、ラッシュアワーを無視するかのようにグングン進み着いた先は葛飾区・青砥の日赤病院(正式名称:葛飾赤十字病院)だった。
生命が誕生する前から周りの皆様に助けてもらい、なんとか膜を破って出てきた。
弘法大師のような立派な僧侶になってほしいという夢と
武人のように男らしく育って欲しいという願いを込めて、
子供は弘武と名付けられた。
父親は俗世間の欲から解放され、人の役に立って欲しいと考え、私の生涯を僧として過ごすことを切に願っていた。
しかしながら、その少年の生涯は僧からは程遠い運命をたどることになった。
出生間もない頃に姉と
幼少時代
自分について
小さい頃は特別な要素が何一つ無いまま、私は育った。
運動の才能がある訳でもなく、
容姿が立派なわけでも無く、
肉体的な強さがあるわけでも無く。
あったのは高度経済成長期に負の遺産として残された公害の影響であった。
小さい頃から喘息、アトピー、中耳炎という特徴を
家族の中で唯一人持っていた私は常に周りの人間との劣等感に苛まれていた。
喘息の為、普段の生活の中でも呼吸困難に陥ることがあり、
発作が始まると喉につかえた咳が止まらない事がよくあった。
本当にこの状態になると苦しく、周りの人間が楽しそうに遊んでいるサッカー等の埃が舞うスポーツも医師のダメという一声で禁止をされていた。
キャプテン翼の影響でサッカーをする友達が多い中、
自分の家だけにはサッカーボールの無く、
楽しそうな玉遊びに参加出来ないもどかしさがあった。
80年から90年代まではデパートの上には遊園地とペットショップがよくあり、
そこで見る可愛い動物に心が惹かれ母親によくおねだりをしていたが、
喘息の為それも叶わなかった。
その時は自分の人生の不自由さを感じ、健康の為を思い敢えて厳しくしていた母親にも
「どうして僕だけが出来ない事が多いの」と嘆いていた。
後にその言葉で母親も胸を痛めていたことを知るが、その時は知る由も無かった。
両親について
私の両親は公務員だった。
それぞれ下記のような境遇を辿り出会った
父親
父親は群馬県の安中市出身で、実家は農家を営んでいた。
今でものどかな風景が覗ける田舎町
農家の大変さを一番分かっていたのは父親であり、
一年中休みが無い仕事を自分でやりたくないし出来ない事はわかっていた。
昔は豚、馬、牛、鶏、そして様々な作物を育てていたと聞いた。
しかし、私が覚えている頃は主に養蚕を手掛けていた。
蚕が立派な繭を作るためには、桑の葉を育てて蚕を付きっきりで世話をしていた。
生物には休みも無く、長期の休みに出かけることも出来なった姿をみて
その状況から抜け出すには勉強しかないと思い、
一念発起をして勉強に性を出すことにした。
目指すは倒産も無く安定が望める公務員。
そして、県内一の高校に進学することが出来た。
今までは勉強をしたらすぐに成績があがり、
満足する結果に浸れることができたが、進学後の世界は全く違っていた。
県内の秀才達が集まる中では凡才であることを気づき挫折しながらも、
明治大学に進学して農家から脱出すべき道を
まずは群馬県から抜け出すことで探っていた。
同時に祖父母も新しい道を模索する父親を支援した。
農家の稼ぎだけだと仕送りが出来ない為、
農家と鉱山でのアルバイトという二足の草鞋を履いて4年間働き続きた。
そして、父親は大学卒業後には公務員になるために試験を受けるが不合格。
三文字が重くのしかかり、失意の父親は群馬の実家に帰り、叔父のつてで農協(現JA)に入社した。
真面目一徹で粘り強さだけはある父親は、そこでも夢を諦めきれずに密かに公務員試験の勉強を続けていた。
自分の夢見ていた環境との大きなギャップを感じ、
早くここを抜け出そうという思いだけで打ち込んでいた。
そして、翌年には挫折から這い上がり、無事公務員試験に合格をすることができた。
叔父のコネで入った職場を結果数ヶ月で退職してしまい、親戚一同の顔には泥を塗ることになるが、
そんな事よりも自分が思い続けていた結果へたどり着けた喜びの方がいっぱいだった。
母親
幼い頃は荒川区の三河島に住んでいた母親だった。
気性が粗くせっかちで画に書いたような江戸っ子だった祖父と、
一度離婚を経験した祖母との間で3人姉妹の次女として母親は生まれた。
腹違いの長女と足に障害を抱える三女との暮らしは世間的な目も、
お金的な面でも相当に苦しかった。
祖父母は終戦直後の混乱の最中は定職も無く、
闇市での物売り、水商売、旅館の経営等々、
食べるために必死になってお金を稼いだ。
祖父母は一時期は旅館の経営で裕福な時期もあったが、
周りの人に騙され再び貧困生活に陥り、
やがては布団屋を始めるために生活費が安い葛飾区の亀有に移り住んだ。
客商売は良い時は大きく稼げ、悪い時は商品を仕入れるお金にも困るくらいの大きな波がある。
そして、商売が上手く行かない時は気性の荒い祖父が暴力を振るい、
そのウサを子どもたちに向けていた。
特に腹違いの長女は目の敵にされ、殴られ蹴られる事が多かった。
今でこそ虐待が問題になる社会だが、1960年代当時はそれが当たり前だった。
工場労働者が多いこの地区だと柄の悪い人とかも多く、父親の周りの人間もそういう人が多かった。
私の少年時代の80年代も祖父母の実家には風呂が無かった為、
よく銭湯に通っていた。その時もほのぼのした光景の中で見える背中にも
色鮮やかな模様を付けた人をよく見かけた。
今でこそこち亀の影響で住みやすいイメージのある土地だが、当時は全然違っていた。
暴力を振るう祖父、いつまで経ってもお金の事で悩み続ける家庭。
母親はこの境遇から少しでも早く抜け出したいと思い、
動機は違うが父親と同じゴールを持ち公務員を目指した。
そして、現在のスカイツリー近くにある墨田区の公立高校に無事に入学し
公務員になるために一番良いと思った中央大学の法学部への進学をする。
父親と違い、要領の良い母親はストレートで公務員試験に合格し、法務局に入ることになる。
そして、そこで後のジェット中島が生まれるきっかけを作る。
性格について
ネガティブな身体的特徴を兼ね備えながらも子供らしく、毎日を楽しんだ。
後述するが、「なんで」が納得出来ないと進めないという性格だった私は
自分の行動にアンバランスさを抱えていた。
算数でもマイナスとマイナスを掛けるとプラスになるが、
なんでマイナスとマイナスでプラスになるのか
論理的に納得出来ないとその計算が出来なかった。
だから、小さい頃は「計算をしなさい」という先生も指示があっても
計算の前段階で躓いてしまい、いつもダメな子だった。
しかしながら、好きな事にはとことんのめり込む性格だった。
共働きをする両親を抱える私は小学校1年生までは千葉県船橋市で過ごし、
毎朝、両親のこぐ三人乗り自転車に姉と一緒に乗せられ、保育園に預けられた。
ここには家で買ってもらった虫の図鑑を持ってきて、
毎日朝から晩まで食い入るように眺めていた。
当時は字が読めなかったから、先生に虫の名前を読んでもらい、蝶から、カマキリから、カブトムシまで全てを覚えていた。
たまに保育園の先生が花壇の土を掘り起こすと出てくる珍しい虫も
「弘武くん、これ何ていうの?」と聞かれるとすぐに答えられるくらい
この頃は虫に精通し、観察する事と捕まえることに熱中していた。
左上に飾られている蝶の名前も当時は全て覚えていた
一番やりかったサッカーが出来ない代わりに、内に篭り図鑑の中の絵と対話することで満足感を得ていた。
そして、そんな保育園時代も終わりを告げる。
新京成電鉄・二和向台駅の近くに当時は公団があり、両親はそこに住んでいた。
上記は新京成電鉄・二和向台駅の昭和末期の風景
オレンジねこさんのページより承諾を得て、リンク挿入
公団の目と鼻の先にある三咲小学校への入学をしたからだ。
ここは校庭に桜の木が多く植えられ、「咲」という文字が似合うくらい薄紅色がキレイに空を舞っており、入学を彩ってくれた。
(※Google street Viewで探したらまだ両方とも存在していた。
公団の色はグレイだと思っていたのだが、記憶違いか塗り直したのだろうか)
実質小学校には3ヶ月程しかいなかったが、今でもそこで過ごした時間は鮮明に思い出す。
両親が埼玉県北本市に家を購入した為に、私たち一家は1987年7月にさらなる田舎へ引越しをする。
そして、新しい環境で自分の価値観を作って行くことになる。
5歳の時に自宅にて
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