人生を情熱的に刺激的に荒々しく、ジェット中島です。
まずは明けましておめでとうございます。
年明け一発目に重大な報告をいたします。
今日は俺口調ではなく、私口調で語っていきます。
たまに畏まる時もあるからね。
という訳で行きます。
まずは私、12年間働き続けた会社を辞めました!
専門卒業後から〜入社まで
12年間の軌跡を整理の為に振り返っていきたい。
米国に夢を抱き、渡米したのは2004年、そして本帰国は2008年でした。
その時はインテリアデザイナーとしての実績を積みたく、
しかも米国生活に疲れてしまっていたので 日本に帰る決心をしたものの、
27歳で仕事の経験が無い私にはビジネスパーソンとしての魅力が無かった。
そこで当時スタートアップから1年しか経っていないフロンティアコンサルティングにCVを送り、無事入社をすることが出来た。
当時は同じ年なのに遥か遠い先にいるマネージャーと2名の先輩社員の部署に配属になり、新人は私だけという状況だった。
周りのみんなとのレベルの差を実感して、
毎日終電まで仕事をして、翌日には9:00から仕事をする生活を3年余り送っていた。
ベンチャーらしくがむしゃらに働くが先がどうなるか分からない当時、
心の中に少なからずこのままでいいんだろうか?
というモヤモヤを抱えていた。
とうとうベトナム行きになった
その時に当時の社長から声が掛かり、2011年にベトナムに行くことになった
2011年の5月末に初めて視察に行くことになり、約1ヶ月後の7月3日にはベトナム・ハノイに赴任をしてきた。
こちらは当時知り合いが働いていたビルの前で撮った
当時の社長との一枚
初めて訪れる土地でのバイクの数は新鮮だった。
(立体交差が作られる前のKim Ma x Nguyen Chi Thanh通り)
このスピード感はさすがのベンチャー!
当時の社長の神がかり的な超速決断にしびれて始動することとなった。
この頃はまだ海外拠点が無く、会社の誰もが何をすれば良いかわからず、ほぼNO PLANで送り出された笑。
そして、私は当面の課題である デザイナー不足を解消するべく現地に赴いた。
だけど、本当に何をすればよいかが分からなかった。
人をまずは採用しなきゃいけないけど、採用の仕方が分からなかった。
当時Lifetime Technology(現MONSTAR LAB )さんの事務所に席だけを借りて仕事をしていたので、
頼れる物は頼ろうと思い、管理部長のTung(トゥン)さんにとにかく聞きまくった。
Vietnamworksというところが採用のポスティングをしているんだな、フムフム。
ここに行って話を聞こうということで、頼りっきりだったトゥンさんに再度担当者をつないでもらい、当時事務所があったVINCOMに訪問した。
この時点ではまだVietnamworksはまだEN JAPANが買収する前で、完全に外資系の企業っぽくガラスで仕切られた会議室とオープンなエントランスが一流企業の雰囲気を存分に醸し出していた。
そして、最初に会った担当者が長身でスラーっとした美人だったこともあり
ますます期待に胸を膨らましていった。
紆余曲折もあったが’1ヶ月半後にはここから1人、
偶然ベトナム学生協会で知り合った人材紹介会社から1名、
そして、トゥンさんから紹介されたV-TOWERにオフィス構える会社から1名、
計4名での船出を切った。
つまり、2011年11月にはやっとオフィシャルにハノイ事務所が動き出せるようになった。
一介のデザイナーだった自分が海外拠点の所長を任される事になり、
人材募集も経理も教育も何もかもしたこと無い時に、
周りの人に頼りながら、2012年の中頃にはイチ作業員から管理者になることが出来た。
そして、2013年1月には当時の社長のアイデアとして、
オフショアだけではなく営業拠点としてベトナムで活動をしていくことになった
ただ、ここで問題が・・・
営業がいない汗
ということでこの頃から私は設計管理者と営業開拓の二足の草鞋を履く事になる
当時営業という仕事に全くやりがいを感じておらず、
仕事はそこそこもらえるが私自身が顧客に対するマインドがとても低かった。
簡単に言うと、顧客満足度を上げるような対応をしておらず、
もらう仕事すべてにクレームが入ってしまった。
スタートアップで実績も無い我々に依頼をしてくれる顧客は本当に大事にしなくちゃいけないのに
当時は「会社に言われたからやっているけど、本当はやりたくない」というあるまじき考えを持っていた。
私の態度は顧客を舐めた物で、今振り返っても赤面、そして羞恥心でいっぱいになる対応ばかりだった。
しかし、さすがに何十回も言われると自分でもビジネスマンとしてもマインドの低さに気づき、改善をするしか無いと分かってからは変わることが出来た。
徐々に現地での仕事の依頼が増えてからは自分の力だけでは対応が出来ない。
そして今後の展望を考えた時にはスケールをしないと考え、
日本本社とも話し合いの場を持った。
自分一人で年間5000万円以上売上を上げられるようになったら
1人営業担当を日本から寄こして欲しいと。
当時は並み居る競合がいる中で、とにかくお声が掛かった案件はすべて取るつもりでやっていた。
事実コンペになっても2年間くらいは勝率100%を保っていた。
競合先にはただの1案件でも、自分にとっては絶対に落とせない貴重な顧客だった。
いくら予算がない顧客でも、いくら手間が掛かろうと、天龍革命並みの魂で対応をしていった。
依頼が掛かっても自分だけでクオリティを担保するのは難しく、そこでどうすればクオリティが上がるか考えた。
設計を教える。
現場を教える。
マインドを教える。
そして工事現場監督もこの業界でやっていた且つ、伸びしろを感じる人間を採用して、とにかく1人に徹底的に教える事にした。
彼は競合先で働いていた人間で、その競合先の社長も知り合いだったので、当時はよくこんな事を言われていた。そして毎回こんな返しをしていた
あいつ雇ったんですか?
ウチでは役に立たないからクビにしたんですよ。
あいつ全然だめでしょう?
という言葉を会う度にもらっていた。 だから、毎回私は
いえ、最高ですよ。
彼がいてくれるからウチは回っていますよ
これは意地の張り合いではなく、本当にそう感じていたから、飾らずに言葉を伝えただけ。
彼とのホーチミン出張の時の写真
私が唯一持っている財産は運だけだと思っている。
節目節目で必要な人に出会い、助けてもらい、進める事が出来た。
彼との出会いも本当に素敵な出会いだったな。
現在も前の会社では働いてくれていて、思い出すのは最初の1年間の事。
同じ時間を過ごし、同じ釜の飯を食べ、一緒に苦楽を共にした。
1週間の内、週末も含めて一緒にいたから丸5日間くらいはずっと二人で行動した。
粘り強く行動し、役職関係無く私に厳しい言葉を時には吐き、そして共に向上を目指して行動した。
どういう風に風向きが変わるか分からなかったから、共に過ごす時間が肉体的にも精神的にもキツかったけど、それ以上の楽しみがあった。
尚、この時にビジネスマナーの欠けていた私は当時競合から面接に来た彼の事を 一報伝えるべきだと上記社長からお叱りを受けた。
話しを戻すと、クオリティはまだまだだが本気で取り組む我々は徐々に顧客数を伸ばしていけた。 そして、転機が訪れる。
日本だと誰もが知っている政府系機関(港区赤坂に本部を置くところ)からお声が掛かった。 そこは7社コンペで我々が一番後発だった。
※コンペとは複数社が提案を出し、入札で選ばれる形式。
しかもスケジュールも残り少ない・・・他社は同じ要望で1ヶ月くらいあるのに我々だけ1/3の10日間だけしか使えなかった。
通常インテリアデザインの提案をする時は
- 要件整理
- レイアウト図面
- デザイン提案
- 金額算出
という流れでこの時はデザイン提案は不要だった。
けど、一番後発組で必要とされていないという事は他社はここで胡座をかいてくるだろうと予想して やれる範囲で最大限のデザイン提案を行った。
過去のプロジェクトのコラージュなんだけど、これでも他社は行っていなかったから差別化が出来て 無事受注に繋がった。
初めての政府系の案件という事で、手探りの部分も多かったが完了させる事が出来た。
金額としては大きくは無かったが、誰もが知っているところをやったおかげで 「某政府系機関をやりましたよ」と言えるようになった
このおかげで初めて会う顧客とも、一気にアイスブレイクをしていくのを感じた。
そして、年間5000万円以上の売上を達成し、
翌年には1名営業を日本から送り込んでもらう事が出来た。
この時は拠点がハノイだけだったが、こちらでの営業も任せられるようになってからは ホーチミン出張に行く機会も増え、無事2016年の9月にはホーチミン事務所を登記した。
また、2017年の頭にはもう1名営業を入れ顧客対応を強化していった。
同年8月には登記が終わったが、まだ本格的な活動が出来ていなかったホーチミン事務所に 単身乗り込み、開所し、こちらでの営業活動を開始した。
同年の前半から中頃に掛けてスタッフを採用し、彼らが仕事を行えるように事務所内装の確認、取引先開拓、顧客の開拓を行った。
取引先工場見学の風景
ただしここで悲しい事があり、ホーチミンでの船出をした時に自分の退任は決まっていた。
ここでの仕事が最後になると感じながら、2年半もの間を過ごす事になった。
幸いにも非常に優秀な営業が採用できた。
内装の道10年の経験があり、顧客との関係作りも抜群にうまい人間だ。
彼のお陰で自分一人でやっていた時は5000万円くらいの売上が
ホーチミンは1億4000万円くらいにまで伸ばすことができた。
そして、ハノイ・ホーチミン両拠点合わせると3億6000万円くらいに届くようになった。
また人数も55名程に増員することが出来た。
そして、2019年12月27日をもって最終出社を終える事になった。
2011年11月のスタートアップメンバー
左から、トアンアイン、稲田、ハイ、中島、フン(敬称略)
上記は送別会兼忘年会の様子
苦楽を共にしたベトナム人スタッフと別れるのは本当に辛く、
半分泣きそうになったが、それも自分で決めた事だからしょうがない。
2019年に別れを告げ、自分の足であるきだすことを決めた。
新年の決意を書くつもりが振り返りで終わったしまったので
次回更新のブログで今年の目標等を発表します。
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