前回の続きになる。
ジェット中島生い立ち-1(出産編)
ジェット中島生い立ち-2(少年時代編)
中学時代
1993年、桜舞い始める頃に北本市立東中学校に入学をする。
上記北本市のリンクより
ここには2つの小学校から生徒が入学した。
私が通っていた北本市立東小学校と同中丸小学校だ。
中学校に入ると生活は大きく変わり、みんな部活を中心の生活になる。
喘息があった私はこれを抱えても出来る、そしてこれを治せるスポーツとして水泳を選んだ。
今も昔も部活動の人気はサッカー、バスケ、テニス、野球等だった。
当時6クラス、計230人くらい程の同学年でも水泳をやりたいと言う人間は少なく
男子だけだと同学年では私を含めて5人だけの少数の入部だった。
ただ、ここでもみんなとは同じ空間にいるだけで仲間と呼べるような間柄ではなかった。
(2人)+(2人)+(1人) というようなペアになっていた。
当然、部活内での1人はぐれ国際軍団は私だった。
先輩にも気に入られずに、いつも冷たく当たられてていた。
性格的にはぐれてしまったのもあるが、その他の原因も多々あった。
私以外の面々は小学校時代にスイミングスクールで水泳に打ち込み、
それなりに成績を上げていた人間。
そして、部活動の先輩は中学入部前から、私以外のほとんどの後輩を知っており
もう入った時点で関係性が出来上がっていた。
また、同級生で私だけが東小学校出身というのもアウェー感を生んでいた原因かもしれない。
かつて少年時代という漫画の中で少しの違いで仲間外れにされるシーンがあったが、私はその通り仲間はずれだった。
みんなが水泳部に入り、タイムを競うというところに重点を置いていたのに対して
私は喘息の治療をしたいという目的があった。
だから、周りがしっかりと打ち込む中、気持ちを入れて部活動に専念出来なかった。
部活動には入らないといけない規則だったから入ったが、全然楽しくも無いし、
部員とも仲良くなれなかったから次第にサボりがちになってしまった。
当時住んでいた家の近くには「ようふく屋」という名前のゲームセンターがあり
そこには駄菓子やゲーム等がおいてあった。
学校終わりには部活動をサボり、行き着く先は部室ではなく「ようふく屋」だった。
現実から離れるように毎日行っていた。
時にはコインゲームをし、時にはアーケードの格闘ゲームをやったりと。
店自体は狭く、20坪くらいしか無かったが所狭しと、レジ、ゲーム台、小型UFOキャッチャー、お菓子の棚等が並べられていた。
出入り口以外に陽が差し込む窓は天井近くの排煙窓しかなく、
外界とは切り離されたような異空間だった。
内装も元々は喫茶店が経営されていたような
昭和風の焦げ茶色と白のチェックのクッションフロアが敷かれていた。
そこは未亡人の女性が店長を務め、息子は私の一歳下だったので親近感を覚えた。
未亡人の店長はスナックのママ風の雰囲気を漂わせていた。
その小顔と茶髪ミドルのソバージュの髪型、そして甲高い声が特徴で、いつもエプロンをしていた。
そのママの吸うタバコで壁はやや茶色掛かり、余計昭和のレトロ感を漂わせていた。
そこで面白かったのは、コミュニティが存在していたこと。
ルイーダの酒場のように、そこに行けば誰かに会え、気軽に話しが出来た事。
金なんかないから、100〜200円でずっと3時間くらいいるのだが
高校生の茶髪の兄ちゃん達も毎日来ていて、当時中学1年生の自分からすると大分大人に見えた。
高校で喧嘩した話、何か悪さをした話、すべて自分がいる世界からすると漫画やドラマの世界のような話で、いつも聞き入ってしまった。
学校だとずっと同じコミュニティだから周りと合わせなきゃいけない。
でも合わせられないから疎外感を感じていた。
しかしここではそんな気兼ねすることなく、嫌だったら来なければ良い。
そんな雰囲気が好きだった。
まさっちとの出会い
「まさっち」と仲良くなるまでは「ようふく屋」で会う人達が唯一の友達だった。
どんなきっかけかは忘れたが、サッカー部のまさっちとは急速に仲良くなった。
私は1年4組、彼は5組で教室も隣同士で、
今までも廊下で顔を合わせることは1年生の1学期もあったのだが
そこまで話すことは無かった。
夏が終わり陽炎が見えなくなってきた2学期の中頃から
まさっちと遊ぶ機会が増えてきた。
彼はスポーツ万能で容姿も良くスケベだったが、
女子からの人気は高い男の子だった。
イケメンというよりも、丸側で可愛らしさとハンサムさが同居したような顔だった。
ただ、私と同じで彼もはぐれ国際軍団だった。
彼は小学校からサッカーをやっていて、
普通だったら同じ小学校内でやっているスポーツクラブに入るのに、
わざわざ別の学区にいっていた。
だから同じ小学校出身者が集まったサッカー部内でも浮いた存在だった
彼はサッカー部内で部活動中はみんなと話すが、
一歩外に出ると部員とは全然交流を持たない人間だった。
フォワード、スタメン、エースだったから
兄貴肌っぽく周りをまとめてもよさそうなのに、
そういう性格ではなく私との交流を選び続けた。
他の人とは笑顔で話しをしても心は開いていないのに
私や親しい人たちと話す時だけは、口と目で笑顔を作っていた。
半端者同士、部活の話しや学校の話しは一切せずに、
お互いの趣味のことだけをずっと話していた。
携帯の無い当時は、日曜日の昼下がりに彼の家に電話を掛けていた。
毎回お母さんが出るので、まさっちに代わってもらい時間を伝えて合流していた。
テレビゲームをしたり、自転車でどこかに出かけるという生活を
毎週末ずっと繰り返していた。
彼にとっても私が唯一の友達であり、私にとっても彼が唯一の友達だった。
中学3年の中頃に入ると、ここも不思議なのだが他の友達とも急速に仲が良くなる。
みとちゃんだ。
みとちゃんとの出会い
彼はバスケ部に所属しているぽっちゃり体型(のちに痩せるが)の人間で、
3つ上の兄貴から教えてもらった知識を色々私にも分けてくれた。
彼もバスケ部では少し浮いた存在で、我々と似た境遇だった。
彼は正面からアホな事をやるタイプで、
彼が先陣を切った後に私がアホをしてふざけ合うという事をよくしていた。
彼とは音楽の事で本当に話しがあった。
ジェット
「みとちゃんは好きなアーティストって誰?」
みとちゃん
「オレは佐藤竹善が好きなんだよね」
ちょっと前に見ていたMusic Stationで Sing Like Talkingが出ており、
佐藤竹善はそのメンバーだった。
この英語名も印象的で、中学当時は文法の事をすごく言われたことだけは覚えいる。
SingもLikeもTalkもすべて動詞だから
文法間違いしてるのでは?なんて思っていた。
今はこのLikeが「〜のように」という意味だと分かるが、当時は「好き」の意味しか知らなかった。
その事を伝えると彼は喜び、
みとちゃん
「佐藤竹善知っている人、初めてだよ」
1995年当時は阪神淡路大震災が起こった年で、他にもオウム事件等があった。
その頃人気だったアーティストは、
Mr. Children, スピッツ、シャ乱Q、CHAGE and ASKA、小室ファミリーだった。
中学生の周りの人間からすると佐藤竹善なんて「誰?」という感じだった。
彼とは音楽の趣味が特に合い、よく語り合っていた。
特にビートルズに私がハマってからは。
ビートルズとの出会い
1995年の大晦日にビートルズアンソロジーという番組が放送された。
通常大晦日は紅白を見るが、母親がビートルズが好きだった関係で
VHSのビデオに3倍速での録画をした上で、何も知らなかった英国ロックバンドの番組を見た。
当時ビートルズの楽曲は212曲と言われていたが、ジョン・レノンの死後に下記2曲が見つかった。
これに存命だった、ポール・マッカトニー、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターの生きたビートルズで曲を編集して発表すると英国国内でビートルズ熱が高まった。
そして、結成から解散までのドキュメンタリー番組が制作されることになった。
日本向けにリバプールの川沿いの風景が映し出され、
そこにキャスターの小宮悦子が川岸を歩きながらオープニングのメッセージを送る。
すると場面が水面にゆっくりスライドし、「In my life」の甘く切ない音楽と共に番組がスタートした。
(記憶だけで書いているので、もしかしたら細かな描写は間違っているかもしれないが汗)
中学生からすると6時間なんて長すぎるくらいなのに、当時の自分には全てが見どころであっという間だった。
そして、その95年と96年をまたいだ時間によって音楽の趣味は大きく代わっていった。
こんなに素晴らしい音楽があったのかと・・・
当時音楽と言ったら、ミスチルや小室音楽が全盛でビートルズを知っている人はいてもがっつり聞いている人はいなかった。
自分にとってはJポップは物足りなかった。
それに反して言葉も違うし今まであまり聞いたこともなかった英国ロックは、
まるで垂直落下のブレーバスターでも食らったかのような脳天直下の衝撃を受けた。
次の日からは好きなアーティストはビートルズというようになり
ビデオも擦り切れるくらい何回も見直した。
ただ、家に帰ってきてからしか聞けない、映像ありの音楽には寂しさを覚え
やがては外出先でも自分の部屋でも聞けるCDを欲するようになる。
中学生の身分には高すぎるビートルズのベスト・アルバムをなけなしの金をはたいて買った。
- 1962~1966:約5000円
- 1967~1970:約4000円
→計9000円もしたベストアルバム。
この赤いアルバム写真はビートルズ2枚目のシングルである「Please please me」のカバーで使われたもの。
青い方は後年、同じ場所で撮り直したもの。
1962~1966は前半のクラブハウスでやっていたライブ音楽が中心でロック要素が強い。
一方、1967~1970はやがて室内演奏でのスタイルに切り替え、新しい試みと芸術性が高い音楽へと変貌していく。
Please please meやFrom me to youでは物語調で語りかけるストレートなメッセージにしびれ
Help!では少年期の原因の分からない不安に共感し
Hello, Goodbyeでは男女の気持ちのすれ違いを自分と重ね
Let it beではひたすらキレイな音色のピアノに聞き入った。
プロレス好きだった私には、解説席に座る山本小鉄氏がよく言っていた言葉が印象的だった。
一般的にはしつこいというのは悪い意味で使われますが、プロレスの世界では、相手からしつこいっていわれるくらいじゃないとダメなんです。
相手からしつこくて嫌だなって言われるくらいじゃないと、大成しないですね。
この言葉を聞いてからは、しつこさは良い意味と捉えるようになり、
ビートルズの音楽の関係性もストーカーばりにしつこくきいていった。
元来ハマったらとことんハマるが、それが肯定化出来るようになった。
ところで、当時5000円出して買うCDは宝物であり、そこに付属されている歌詞カードを手の油で汚すなんてことはしてくなかった。
歌詞を見たけど汚したくないという悩みを、
シャープ製の「書院という」ワープロで歌詞を打ち込むことで解決した。
印刷した感熱紙を片手に歌詞をすべて覚えていった。
93年当時、同級生では誰もワープロ使っている人なんかいなかったが、
親が使っていた書院を触ったら楽しくなってここにもハマっていった。
そして、歌詞を覚えるだけでは物足りない私は子供の頃はあんなに嫌いだったピアノを
ビートルズを弾きたいという気持ちだけで練習を始めた。
母親の知り合いの先生に頼み、毎週火曜日はピアノを習うようになった。
たまに気持ちが落ちている時はLet it BeやThe long and winding roadといったピアノ主体の曲を聞いて、気持ちをいれてビートルズへの傾倒していった。
結局ピアノは2年間半くらいで辞めてしまうのが、この間は本当にのめり込んでいった時期だった。バンドとかを組んで続けていればと少し後悔。
音楽だけではなく、
時代遅れのマッシュルームカットをし、
ジョン・レノンばりのアイロニーを含んだ言葉選びをし、
丸ブチメガネを選んだ。
そして、そこから徐々に派生し、ジョン・レノン、イーグルズ、サイモン&ガーファンクル等の音楽を聞くようになった。
やがて、音楽だけでなく映画も英語ベースの物を見るようになり、
次第に外国への興味を深めていく。
いつも勉強は出来なかったが、英語だけは勉強・・・というよりも好きなアーティストの真似をし覚えていった。
そんな中学3年の1月には受験を迎え、高校を選ぶステージに入る。
興味が沸かない事への意欲は低く成績はいつも悪かった、
それも中途半端に悪かった。
そして、前述した通り、この時も下記のような傾向があった
算数でもマイナスとマイナスを掛けるとプラスになるが、
論理的に納得出来ないとその計算が出来なかった。
国語も「この文章から筆者の言いたいことは何でしょう?」という質問に対して
いつも答えることが出来なかった。
意見なんて人それぞれ考え方があって、捉え方を推測するなんてナンセンスだと思っていたから。
だから、私の50程度の偏差値では入れるところは少なかったが、
英国人の先生と英国への研修プログラムがあった秀明英光高校に入学することにした。
続く。
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