越境BLOG(小説風) Vol.1

Novel

 

本日から小説風に自分のベトナム渡航と今に繋がる経緯を書いていきたいと思っている。

どのように終わりを迎えるのかも分からないので、書いている中で反響があったら面白いオチにて終わらせていきたいと思っている。

 


 

ガタガタガタッ!

 

まだ余震が残っているアパートで目覚めた。

2011年3月11日に東日本大震災が起こり、街中は騒然となり一晩で自粛ムードになってしまった。

それを間近で感じていたオレは歴史的な一日を体験してしまったショックを感じていた。

 

その前に体験した歴史的な一日は昭和天皇が崩御した日だった。

でもその時はまだ小学校2年生だったので事の重大さが分かっていなかった。

 

その他にも9.11もあったがあれは所謂アメリカと中東との出来事だったので、

間接的に感じる事はあってもリアルに悲しい・苦しいという感情は無かった。

 

震災からも2週間ほど経っているのにいまだに余震は収まらず、オレの心は停滞していた。

 

当時は東京都葛飾区の青砥というところに住んでいた。

当時住んでいたエスアール青戸というマンション。

ここが会社のある東日本橋から一本で行けて便利だったからだ。

 

毎日通勤をしていたが、その足取りは決して軽い物では無かった。

 

というのも当時は30歳で、社会人デビューしたのが遅かったせいで、会社内でも同年代の人間はすでにマネジャーやそれ以上の役職についている物までいたのに、自分は一番下っ端の身分だったから。
(当時の自分は他人と比較することでしか価値を見いだせなかった。)

そして、仕事も覚える事が多くいつも終電間際で帰るという生活を3年近くしていた。

会社から近いところに住んだのは良いが、シャトルバスのような電車に揺られ身体ともに衰弱しきっていた。
それは決して残業だけではなく、毎日精一杯働くが自分の中の評価と外からの評価が一致することは稀だったから。

そして、震災で自分の周りの環境も暗くなっていった。

 

ただし当時も希望だけは捨てずに、

今は仕事も大変で負担も大きいけど、いつかはもっと技術を付けて金も貰えるようになって、値札を見ずに買い物が出来るようにする」

という意気込みだけはあった。

 

疲れ果てている体にムチを打って仕事をしている毎日だったが、周りを見渡してみるとそれは自分だけでは無かった。

 

私が働いていたのはフロンティアコンサルティングという会社という会社で、オフィスを専門に内装の設計と工事をやる会社であった。

そこにアメリカ帰国直後の2008年の5月に入社した。

 

33歳の社長が2007年に立ち上げた非常にフレッシュな会社だった。

2011年にはベンチャー気質が収まるどころかより一層加速していった。

今まで手がけられなかった大型の案件が取れるようになり、設計の人間の手が足りなくなっていったのもその当時であった。

だから、頑張れば頑張るほど営業の人間も受注を取っていって業務量も増え、私が所属していた設計デザイン部の人間は疲弊をしていっていた。

今までは1000万円以下の案件がほとんどだったが、2010年頃には4000万円くらいの案件も増えいった。

その疲弊とは裏腹に会社は利益がようやく出るようになり、手狭になった高田馬場のMALIビルから東日本橋のPMOという中型では非常に良いオフィスに移転した。

↑移転前のオフィス@高田馬場・MALIビル

↑移転後のオフィス@東日本橋・PMO

↑今考えても非常に格好良く素晴らしいオフィスであった。

 

移転前は会議”室”というスペースが無く、部署間での会議を行う際は近くのジョナサンやルノアールに行っていたが、移転してからは社内オフィスが確保でき移動の手間を省く事が出来た。

 

そこで、ある日オレは海原社長と米田マネージャー(以後GM)に呼ばれた。

オフィスの広場より当時の会議室写真を転用
https://www.office-hiroba.com/html/recruit/frontierconsul.html

 

米田GM
「実は今設計デザイン部の方針で試してみたい事がある。近い内にベトナムに拠点を出したいと思っている。今の設計のリソース不足をそこで補おう予定だ。」

 

オレと年は同じだが、若くからのこの業界に入り設計者として活躍してきた米田氏は直属の上司であり、いつも物事を深く考えている様子は尊敬していた。

ただ、この時ばかりは頭に「???」が浮かんでいた。

中島
「はいっ?」

 

米田GM
「中島に行ってもらいたいと思うんだけど、どうかな?」

 

中島
「私ですか?今聞いたばかりで具体的にイメージが湧かないですが、面白そうですね。」

 

何か見えない物に飛び込んでいくのは楽しそうだなと感じたが、全然具体像が描けなかった。

また、疑問も次から次へと湧いてくるので一番優先的な事を聞くことにした

 

中島
「そうそう、近い内っていつですか?」

 

米田GM
「7月の頭を予定している」

話を聞いたのが3月の終わりだったので、3ヶ月先にはもう赴任という事になる。

これは急ピッチだ。

話しを纏めると、当時本社本社では営業15人に対して設計6人ほどであった。
設計の人数が圧倒的に不足していたが、良い人材採用が出来ずに苦労していた。

一般的に建設・内装業界だと「ゼネコン」と呼ばれる大手か、「先生」と呼ばれる建築家がいるアトリエが花形の職場で、我々みたいなベンチャーは魅力が乏しく中々人手が集められずにいた。
採用がうまく行かない状態が2年ほど続いていたので、その解決法としてベトナムにオフショア拠点を作りそこで設計の受け皿を担うという事を計画していたのだった。

実は、この前年にこの海原社長米田GMは知り合いのIT企業の社長達とベトナムの視察に行っていた。

その時に見せらせたベトナムの光景は衝撃的で、↓のような電線が絡み合った写真がやたら印象的だった。

 

この時はベトナムの事で知っているのは、ベトナム戦争ベトちゃん&ドクちゃん地雷くらいだった。

今ではベトナムについて深く知るようになったが、この時は何も知識も無かったし遠い世界のように思えた。

この一年後にはベトナム赴任の話しを持ちかけられ、そして1年半後には現地に赴任しているとは思いもよらなかった。

 

当然だが、この打合せではベトナム行きをものの5分で全面合意して幕が閉じた。

 

それから、2〜3日経って再びオレは号令を掛けられる事になった。

 

打合せスペースに呼ばれて行くと、そこには米田GM東林(ひがしばやし)マネージャー(MG)が先に着席していた。

つづく・・・

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